「廃業しかないかな、と思っていたんです」
そう打ち明けてくれたのは、大阪で製造業を営む62歳の社長でした。創業30年、従業員40人。しかし後継者が見つからず、自分が倒れたらこの会社はどうなるのか。半ば諦めて、廃業の手続きを考え始めていたと言います。
そこに一本の電話がかかってきました。同業他社からのM&A打診でした。
廃業かM&Aか。その差は「億単位」だった
廃業した場合、手元に残るお金はいくらになるでしょうか。工場の設備、在庫、売掛金から借入や清算費用を差し引いて、最終的にオーナーの手に残るのはほんのわずか、というケースも珍しくありません。
それどころか、廃業コストで手出しになる社長もいます。
一方、この社長が選んだのは「株式譲渡」によるM&A。手取りは5億円を超えました。
廃業ならほぼゼロだったはずの会社の価値が、出口設計ひとつで億単位に変わる。税制の仕組みをうまく活用すれば、こんな結果が生まれます。
個人の株式譲渡には「20%分離課税」という大きな優遇がある
M&Aの方法にはいくつかありますが、オーナー社長が個人で保有する株式を売却する「株式譲渡」には、重要な税制上のメリットがあります。
株式の売却益には、給与や事業所得のように累進課税(最高55%)が適用されません。代わりに、所得税・住民税を合わせて約20%の「申告分離課税」のみ。
仮に売却益が6億円あったとしても、税金は約1.2億円。手取りは約4.8億円になります。
これを給与で受け取っていたら、税負担は3億円を超えることもあります。同じ金額でも、受け取り方ひとつで億単位の差が生まれるのが、税の世界の現実です。
「役員退職金」で株価を圧縮する
ただし、株式の売却価格が高いほど売却益も大きくなり、税金も増えます。そこでM&A成立前に行うのが「役員退職金の受け取り」です。
会社が退職金を支払うと、その分だけ会社の純資産が減ります。純資産が下がれば株価の評価も下がり、結果として売却益が圧縮されます。
この社長は、M&A成立前に役員退職金として3,000万円を受け取りました。退職金には「退職所得控除」という手厚い税制優遇があり、同額を給与で受け取る場合と比べて税負担は大幅に小さくなります。
退職金で株価を下げ、M&Aの売却益を圧縮する。この「二段階の設計」が、5億円という手取りを実現した鍵でした。買い手にとっても取得コストが下がるため、双方にメリットのある構造です。
出口設計は「早めに動いた社長」だけが使える
M&Aには時間がかかります。相手先の選定から交渉、デューデリジェンス(企業調査)、最終契約締結まで、短くても半年、長ければ2年近くかかることもあります。
そして、買い手がつく会社には条件があります。売上が安定していること、財務が健全であること、社長一人への依存度が低いこと。
業績が落ちてから、あるいは健康上の問題が出てから動いても、買い手はなかなかつきません。「そろそろ考えようかな」と思った瞬間が、出口設計を始める最適なタイミングです。
50代から会社を磨き始め、60代前半で最高の条件でM&Aを成立させる。これが、オーナー社長の「最後の大仕事」と言えるかもしれません。
「自分の会社を売るなんて」と抵抗感がある社長も多いと思います。でも、M&Aは「逃げ」でも「終わり」でもなく、会社と従業員の未来を守るための立派な選択肢のひとつです。まずは税理士やM&Aアドバイザーに一度相談してみてください。自社の価値を客観的に知るだけでも、これからの経営判断が大きく変わってきますよ。
※本記事は一般的な情報提供を目的としています。具体的な税務判断は税理士にご相談ください。