先日、ある経営者からこんな話を聞きました。

創業30年の製造業を営んでいた田中社長(仮名・60歳)が、長年の迷いを経てついに会社の売却を決断。複数の候補先との交渉を経て、5億円という金額で成約しました。「老後はゆっくり温泉にでも」と笑って話していた彼が、振込明細を見た瞬間、言葉を失ったそうです。

5億で売れたのに、手元に残ったのは3億ちょっとだった

何が起きていたのか、整理してみましょう。

まず大きいのが税金です。株式を譲渡して得た利益には、所得税・住民税あわせて20.315%の税率がかかります。5億円の譲渡益なら、単純計算で約1億円が税として持っていかれる計算です。

次に、M&Aアドバイザーへの成功報酬。仲介型の場合、売却額の数%が相場です。田中社長のケースでは約2,500万円がここで消えました。

さらに「まったく想定していなかった」と言っていたのが、個人保証の解除費用や各種手続きコストです。長く経営していると、銀行融資の連帯保証を個人で負っていることがほとんど。それを正式に外すための手続きには、想像以上の費用と時間がかかることがあります。

結果として、手元に残ったのは3億円ちょっと。もちろん大金ではありますが、「5億が手に入る」とイメージしていた田中社長には、かなりの落差でした。

「もっと早く知っていれば」と悔やんだこと

田中社長が一番悔しそうに話していたのが、役員退職金の活用タイミングを逃したことです。

会社が売れる前に、社長自身が退職金として報酬を受け取っておく方法があります。退職金には「退職所得控除」という強力な控除が使えるため、同じ金額でも株式譲渡益として受け取るより、税負担がずっと軽くなります。

勤続年数20年超であれば、退職所得控除は「800万円+70万円×(勤続年数−20年)」で計算されます。30年勤続なら控除額は1,500万円。さらに退職所得は、課税対象が「(収入−控除)÷2」と半分になるため、実効税率がかなり抑えられるのです。

仮に売却前に1億円を役員退職金として受け取っていたとしたら、その1億円にかかる税負担は、株式譲渡益として受け取るケースとは数千万円単位で変わることもあります。田中社長の場合、このタイミングを逃したことで、「手取りが数千万円は変わっていたかもしれない」と感じているそうです。

出口設計は「売却後」ではなく「売却前」が勝負

M&Aというと、買い手探しや企業評価の話になりがちです。でも税金の観点では、売却前の設計がすべてを決めるといっても過言ではありません。

株式が譲渡されてしまってからでは、役員退職金の活用もできないし、株式の保有構造を変えることも難しい。売却後に「何か節税できませんか」と相談されても、できることはほとんどないのが現実です。

事前に検討しておきたいポイントを挙げるとすれば、次のような項目があります。

  • 役員退職金の支給タイミングと金額の設定(規程整備と株主総会決議が必要)
  • 株式の保有者が適切かどうか(配偶者・子への事前移転の検討)
  • 個人保証の整理と、解除にかかるコストの把握
  • M&Aアドバイザーとの契約形態(仲介型か、FA型かによって費用構造が変わる)

特に役員退職金は、「役員退職慰労金規程」の整備と正式な株主総会決議が必要です。売却交渉が始まってから慌てて動いても、時間的に間に合わないことがほとんどです。

売却を考え始めたら、まず顧問税理士に話してほしい

M&Aは準備から成約まで、早くても1年、長ければ2年以上かかることがあります。60歳での引退を考えているなら、55〜57歳頃から出口設計を始めていてちょうどいいくらいです。

田中社長は最後にこう言っていました。「M&A仲介会社は売ることが仕事。でも自分の手取りを守るのは税理士の仕事だったんだな、と今更わかった」と。

会社の売却を少しでも意識し始めたら、仲介会社に相談する前に、まず顧問税理士に「出口設計」の話をしてみてください。そのひと手間が、数千万円の差を生むことがあります。

※本記事は一般的な情報提供を目的としています。具体的な税務判断は税理士にご相談ください。