先日、製造業を営む60代の社長からこんな相談を受けました。「M&Aで会社を5億で売った。でも手元に残ったのは2.5億にもならなかった。いったいどこへ消えたんだ?」
怒りと戸惑いが混じったその表情が、今でも忘れられません。5億という数字だけを見ていた社長は、売却後の手取りがそこまで減るとは思っていなかったのです。
まず、税金で約1億円が吹き飛ぶ
株式を売却すると、その利益に対して一律20.315%の税率がかかります(所得税+住民税の合算)。これは「分離課税」といって、役員報酬など他の所得とは切り離して計算されます。
自社株の場合、取得費は設立時の払込額になることがほとんどで、売却額のほぼ全額が「利益」として課税対象になります。5億円の売却なら、税額はざっと1億円。この最初の一撃だけで、手取りはいきなり4億を切ります。
次に、仲介費用でさらに数千万円
M&Aには必ずコストがかかります。仲介会社への手数料は売却額の3〜5%が相場ですから、5億円なら1,500万〜2,500万円になります。
これに加えて、法律事務所への費用、デューデリジェンス(財務・法務・税務の精査)費用、会計士費用など、諸々合わせると1,000万円を超えることも珍しくありません。税金と費用を差し引いた時点で、手取りはすでに3億を大きく下回っています。
そして、最大の「見えない損失」がある
ここからが本題です。多くの社長が気づかないまま、数千万円規模の節税チャンスを丸ごと逃しています。それが「役員退職金」の活用です。
役員退職金には「退職所得控除」という強力な優遇制度があります。勤続年数が長いほど控除額が大きくなり、さらに控除後の残額の半分だけが課税対象になるという二重の優遇です。同じ額を役員報酬として毎年受け取るのと比べると、税負担がまったく異なります。
たとえば、20年以上勤続した社長が5,000万円の退職金を受け取った場合、課税される金額は通常の給与とは比べものにならないほど小さくなります。M&A前にこの設計をしていたかどうかだけで、手取りが数百万〜1,000万円以上変わるケースは決して珍しくないのです。
「売却が決まってから」では手遅れ
問題は、退職金の設計を「M&Aが決まってから考えよう」とする社長が圧倒的に多いことです。
M&Aの交渉が本格化すると、会社の財務状況は買い手側に詳細まで開示されます。そのタイミングで退職金を急いで設計すると、「利益調整では?」と疑われたり、買い手の評価額に影響したりするリスクがあります。場合によっては交渉が破談になることさえあります。
理想は、M&Aを具体的に考え始める1〜2年前から出口設計に着手することです。
「売れた額」ではなく「残る額」で逆算する
出口設計で検討すべき主な手段を整理するとこうなります。
- 役員退職金の金額と支給タイミングを設計する(功績倍率方式で適正額を算出)
- 自社株の評価を適正化する(過大評価のままM&Aに臨むと税負担が増える)
- 個人で受け取る額と法人に残す額の配分を最適化する
いずれも、M&A後では手が打てないものばかりです。
M&Aは会社人生の集大成です。売却額という数字に目を奪われず、「いくら手元に残るか」を軸に逆算して設計することが、本当の意味での成功につながります。「まだ具体的な話ではない」「M&Aなんてまだ先」と思っているそのタイミングこそが、出口設計を始める最大のチャンスです。一度、信頼できる税理士に相談してみることをおすすめします。
※本記事は一般的な情報提供を目的としています。具体的な税務判断は税理士にご相談ください。