先日、精密部品メーカーを経営する60代の社長から連絡が来ました。「M&Aで3億円のオファーが来ているんだが、実際に手元にいくら残るか教えてほしい」と。

3億という数字への高揚感はある。でも正確な手取り額を知らないまま交渉を進めている——そういう社長は、実は少なくありません。結論から言うと、売却スキームの選び方一つで、手取りが9000万円以上変わることがあります。

株式譲渡なら「約2億4000万円」が手に入る

会社の売却方法には大きく2種類あります。「株式譲渡」と「事業譲渡」です。

株式譲渡とは、あなたが保有している自社の株式をそのまま買い手に渡す方法です。この場合、売却益にかかるのは20.315%の分離課税(所得税・復興特別所得税・住民税の合計)のみ。

3億円で売却した場合、株の取得費がほぼゼロに近いとすると、税金はおよそ6000万円。差し引いた手元には約2億4000万円が残ります。「6000万円の税金は痛いが、まあ2億4000万円手に入るなら」と感じる数字ではないでしょうか。

問題は、もう一方の選択肢を選んだときです。

事業譲渡の「二重課税」で3億が1.5億台に

事業譲渡とは、会社の中身——資産、権利、従業員、取引先との契約など——を個別に買い手に渡す方法です。買い手にとっては「欲しい部分だけ」引き継げるメリットがあるため、交渉の席で提案されることがあります。

ただし税務上の扱いは株式譲渡とまったく別物です。

事業譲渡の場合、まず法人がいったん売却代金3億円を受け取ります。ここで法人税等が約34%かかるため、会社に残るのは約2億円。しかしここで終わりではありません。

その会社に残ったお金を株主(=あなた)に渡す際、今度は配当として約20%の課税がさらにかかるのです。これが「二重課税」と呼ばれる状態です。

計算すると実効税率は40%を超え、最終的な手取りは1億5000万円台に落ちるケースも珍しくありません。同じ「3億円での売却」が、スキームの違いだけで9000万円以上の差を生む。この現実を知らずにサインしてしまう社長が後を絶たないのです。

「では株式譲渡を選べばいい」——それだけでもない

ここで一つ注意点があります。スキームは売り手だけで自由に決められるわけではありません。

買い手が「簿外債務や訴訟リスクを引き継ぎたくない」という場合、事業譲渡を条件として求めてくることがあります。会社に個人保証付きの借入が残っている場合も、株式譲渡では処理が複雑になりやすい。

つまり「株式譲渡を選ぶのが正解」は正しいのですが、それを交渉で実現するために、事前に会社の財務状態を整理しておくことが前提になります。買い手が安心して株式譲渡を受け入れられる状態を作っておくかどうかで、交渉の主導権が変わってきます。

役員退職金を重ねれば、さらに手取りが増える

株式譲渡スキームを確保した上で、もう一段の節税策として使えるのが役員退職金です。

M&Aのタイミングで代表を退任するなら、会社から退職金を受け取れます。退職金には「退職所得控除」という大きな非課税枠があり、勤続年数に応じて膨らみます。勤続30年なら控除額は1500万円。それを超えた分も通常所得の2分の1として計算されるため、給与収入より圧倒的に税負担が軽い。

3億円の株式譲渡に退職金を組み合わせることで、トータルの手取りをさらに引き上げることが可能です。ただし退職金が「不相当に高額」と判断されると損金算入を否認されるリスクもあるため、適正額の設計は必ず税理士と相談してください。

M&Aのオファーが来たとき、最初にすべきこと

M&Aの話が持ち上がると、どうしても「いくらで売れるか」に意識が集中します。しかし本当に重要なのは「いくらが手元に残るか」をセットで考えることです。

仲介会社は売買成立で報酬を得る立場。税務的に最適なスキームを一緒に考えてくれるとは限りません。オファーが来たら、早い段階で自分のサイドに税理士をつけてシミュレーションを依頼する——それだけで数千万円の差が生まれることがあります。

まだM&Aを考えていないとしても、「株式譲渡で有利に売れる状態を作っておく」という視点で、株主構成の整理や借入の個人保証解除を今から進めておくのがおすすめです。いざオファーが来てから動き始めても、間に合わないことがあります。

※本記事は一般的な情報提供を目的としています。具体的な税務判断は税理士にご相談ください。