先日、ある社長から届いたメッセージに、思わず手が止まりました。\n\n「退職金を3,000万円計画していたのに、手取りが想定より数百万円少なかった。どうしてこうなったんですか?」\n\n30年間、機械部品メーカーを一代で築いた佐藤社長(仮名)の話です。従業員80名、地元では知られた優良企業。その佐藤社長が、退職金設計の”たった一つの数字”にこだわったことで、思わぬ落とし穴にはまってしまいました。\n\n## 問題は「功績倍率3.5倍」にあった\n\n佐藤社長の退職金は、よくある計算式で設定されていました。「最終月額報酬 × 勤続年数 × 功績倍率」という方式です。最終月額報酬を約70万円、勤続年数30年として計算し、功績倍率を3.5倍に設定していました。\n\n「30年間、身を削って会社を守ってきた。3.5倍は当然だ」という気持ちは、経営者であれば誰でも持つはずです。計算式の枠組み自体は正しい。問題は、この功績倍率の根拠が文書として残っていなかったことでした。\n\n## 税務調査で何が起きたか\n\n退職から数年後、税務調査が入りました。調査官が同業他社の役員退職金データと照合した結果、「3.5倍は高すぎる。適正は3.0倍」という判断が下されました。\n\n差額の約450万円が、退職所得ではなく給与所得と認定されたのです。\n\nこれが、どれほど影響するかわかりますか?\n\n退職所得には、長年の労に報いるための手厚い税制上の優遇があります。まず「退職所得控除」があり、勤続30年なら約1,500万円が非課税枠として認められます。さらに、控除後の残額を2分の1に圧縮してから課税する仕組みになっているため、同じ金額でも通常の給与より税負担が大幅に軽くなります。\n\nところが給与所得に再分類された450万円には、この1/2課税の恩恵が一切ありません。普通のボーナスと同じ扱いで所得税・住民税が課され、そこに延滞税や加算税まで加わります。佐藤社長の手取りは、当初の計画より数百万円単位で減ることになりました。\n\n## 「3.0倍が法律の上限」ではない\n\nここで多くの社長が誤解していることを整理しておきます。\n\n功績倍率3.0倍は、法律で定められた上限値ではありません。あくまで、税務調査で否認されにくい目安として広く認識されている数字です。\n\n実際には、3.0倍を超える倍率が認められた判例も存在します。ただしそのためには、「なぜこの倍率が妥当なのか」を客観的に示す根拠が必要です。\n\n- 同業他社の退職金水準との比較資料\n- 本人の経営貢献に関する記録(創業経緯、業績改善の実績、特許や受賞歴など)\n- 株主総会で承認を得た退職金規程とその策定経緯\n\n佐藤社長のケースでは、退職金規程は形式的に存在していました。しかし「なぜ3.5倍なのか」という問いに対して、文書で答えられる準備がなかった。それだけで、税務調査の場では不利になります。\n\n## 今からでもできる対策\n\n退職金の設計は、受け取る数年前から準備を始めるのが理想です。直前に慌てると、取れる選択肢が限られてきます。\n\nまず確認していただきたいのは、役員退職金規程が存在しているかどうかです。就業規則とは別に、役員退職金の計算方式を明記した規程を設け、株主総会の決議を経て正式な文書として整備しておく必要があります。\n\n次に、功績倍率の根拠を記録しておくことです。業界水準のデータや、本人の経営貢献を示す資料(決算書の推移、取引先の拡大実績、メディア掲載など)を日頃から蓄積しておくと、いざというときに説明できます。\n\nそして、退職の3〜5年前には必ず税理士と一緒にシミュレーションを行うことをおすすめします。役員報酬の水準、退職時期、退職金の総額がすべて絡み合っているため、単独で最適解を出すのは難しいからです。\n\n## 退職金は「受け取ってから気づく」では遅い\n\n佐藤社長は今も、「あのとき規程の根拠だけ残しておけば、こんなことにはならなかった」と話しています。\n\n退職金は一度支払ったら修正できません。税務調査が入るのは支払いから数年後のことも多く、問題が発覚したときにはすでに手遅れです。\n\n30年間の経営の締めくくりとなる退職金だからこそ、設計は早めに。退職金規程をまだ整えていない、あるいは功績倍率の根拠を文書で残していないという方は、今期中に税理士へ相談するタイミングです。\n\n※本記事は一般的な情報提供を目的としています。具体的な税務判断は税理士にご相談ください。