先日、ある製造業の社長からこんな話を聞かせてもらいました。「もう少し早く動いていれば、あの会社は残せたはずなんですよね」と、少し遠い目をしながら。

その社長が語ってくれたのは、親しくしていた同業仲間の話でした。

30年かけて築いたものが、5年の迷いで消えた

田中さん(仮名)は、創業30年・年商3億円の町工場を経営していました。金属加工の技術は業界でも一目置かれ、大手メーカーから継続的な発注を受けていた、地域に根ざした優良企業でした。

65歳を前に、そろそろ引退を考え始めた田中さん。息子さんに声をかけましたが、医師の道を歩んでいた息子さんは「お父さんの気持ちはわかるけど、今さら会社に戻れない」と。

「じゃあM&Aで誰かに譲るか」と考えたこともあったそうです。でも、心のどこかに引っかかりがあった。「30年かけて育ててきた会社を、見ず知らずの人間に渡すのか」という気持ちです。結局、判断を先送りにしたまま、70歳になっていました。

「まだ間に合う」が、一番危ない

70歳になってから本格的に動き出した田中さんでしたが、今度は別の壁にぶつかります。M&Aで買い手を探そうにも、オーナーが高齢で後継者もいない会社は、買い手から見ると「リスクが高い」と判断されやすくなるのです。

技術はある。取引先もある。でも、引き継ぎを担える人材がいない。買い手が見つかっても、交渉が折り合わない。そのうち体調も思わしくなくなり、気力も落ちてきた。最終的に田中さんが選んだのは廃業でした。

従業員30人が職を失いました。30年かけて積み上げた加工技術も、設備も、取引先との関係も、すべて消えました。

127万社が「同じ崖の上」にいる

これは田中さんだけの話ではありません。中小企業庁のデータによると、後継者が決まっていない企業は現在127万社にのぼると言われています。そのうち約30%が廃業を選ぶという試算もあります。

廃業を選ぶ理由はさまざまですが、多くに共通しているのが「決断の先送り」です。

  • 後継者に頼むのが申し訳ない
  • M&Aに踏み切る決心がつかない
  • まだ自分が元気なうちは大丈夫と思っている

どれも、人間として自然な感情です。でも、事業承継は「動けるうちに動く」ことが鉄則で、時間が経てば経つほど選択肢が狭まっていくのです。

早く動くほど、選べる手段が増える

事業承継の手段には、大きく分けて3つあります。

親族内承継は最もスムーズに見えますが、後継者が経営を学ぶ時間が必要です。少なくとも5〜10年のリードタイムが理想です。

**役員・従業員承継(MBO)**は、会社の事情をよく知る人物に引き継ぐ方法ですが、資金調達の問題が出ることも多い。それを解決するための制度や金融スキームも存在しますが、準備に時間がかかります。

**第三者承継(M&A)**は、ここ数年で中小企業向けのプラットフォームや専門家が急増し、かなり身近になりました。ただし、買い手探しから成約まで平均1〜2年。オーナーが元気で、会社に勢いがある時期に動き出すことが、良い条件での成約につながります。

どの手段も、共通して言えることがあります。「60代前半までに動き出す」こと。これが、選べる選択肢の数を決める最大の要因です。

「うちはまだ早い」と思っている社長へ

田中さんの話を聞いた製造業の社長は、その翌月、事業承継の専門家に相談の予約を入れたそうです。「自分もきっと、同じ言い訳をして先送りしていたと思う」と言っていました。

後継者問題に正解はありません。親族に継がせることが正解とは限らないし、M&Aが最善とも言い切れない。でも「何も決めないまま時間だけが過ぎる」だけは、避けられる未来です。

もし今、後継者のことが頭の片隅にあるなら、今期中に一度、専門家に話を聞いてみることをおすすめします。相談するだけなら、何も決める必要はありません。でも、選択肢を知っておくことが、5年後の自分を助けてくれるはずです。

※本記事は一般的な情報提供を目的としています。具体的な税務・法務判断は税理士・弁護士にご相談ください。