「うちは長男に継がせるつもりだから、相続の準備はそのうちやればいい」
こんなことをおっしゃる社長に、よくお会いします。気持ちはわかります。元気なうちに死の準備をする気にはなれない。でも「そのうち」が永遠に来なかった、という話を今日はご紹介したいと思います。
62歳で急逝した社長に、何が起きたか
創業28年、従業員40名の製造業を率いていた田中社長(仮名)は、62歳のとき突然の心筋梗塞で他界しました。
会社の株式評価額は約3億円。数年前から長男が会社に入っており、田中社長も「全部長男に渡す」と家族には繰り返し話していました。ただ遺言書は「もう少し落ち着いたら書く」と先延ばしにしたまま、その日を迎えてしまいました。
遺言がないと、株式は自動的に3人に分散する
遺言書がない場合、財産は民法の「法定相続」のルールで分配されます。配偶者と子ども2人がいるケースでは、配偶者が1/2、残りを子どもたちで均等に分けるのが原則です。
田中社長の株式3億円に当てはめると、妻に1億5,000万円相当、長男に7,500万円相当、次男に7,500万円相当が自動的に割り当てられます。長男が「全株を自分に集めたい」と言っても、それは妻と次男の同意なしには認められません。
全株を引き継ぐのに、2.25億円が必要だった
長男が全株を単独で取得しようとすると、妻と次男に「代償金」を支払う必要があります。その金額は2億2,500万円。個人でこれを用意できる後継者はほとんどいません。
「会社の資金を使えばいいのでは」と思うかもしれませんが、それはそれで税務上・法律上の問題が生じます。銀行融資も、相続が確定していない段階では進みにくい。結果として、田中社長の会社では遺産分割協議が1年以上続きました。
協議が長引く間、株主総会すら開けなかった
ここが見落とされがちなポイントです。株式の帰属が確定しない間は、株主総会を適法に開催できません。取締役の選任もできない。会社は動き続けているのに、重要な意思決定がことごとく止まる状態が続きました。
取引先への説明、社員のモチベーション、銀行との関係——現場で何が起きていたか、想像に難くありません。
遺言なし相続で起きる、3つの経営リスク
田中社長のケースを整理すると、遺言書がないことで生じるリスクは大きく3つです。
ひとつ目は「経営権の混乱」です。株式が複数人に分散すると、後継者が単独で過半数を確保できなくなることがあります。少数株主であっても、重要事項の決議を妨害できる場面は出てきます。
ふたつ目は「代償金による資金枯渇」です。後継者が株式を集約しようとすれば、相応の現金が必要になります。その分だけ会社の財務基盤が削られる、あるいは個人の借入が膨らむことになります。
三つ目が「協議の長期化による経営停止リスク」です。相続人の誰かが「私にも権利がある」と主張し始めると、話し合いは一気に複雑化します。弁護士が介入し、家庭裁判所の調停に移行するケースも珍しくありません。
公正証書遺言と遺留分対策の組み合わせで防げる
対策はシンプルです。「公正証書遺言を書く」こと、そして「遺留分への手当てをセットで打つ」こと、この2点に尽きます。
公正証書遺言は公証役場で作成する法的効力の高い遺言書で、「全株式を長男〇〇に相続させる」と明記しておけば、遺産分割協議なしに株式を承継できます。ただし、妻や次男には「遺留分」という最低限の取り分が法律上保障されており、遺言書があってもその請求は防げません。
遺留分対策としては、生前贈与の活用、生命保険での代償金原資の手当て、あるいは遺留分の事前放棄の手続きなどが有効です。いずれも早めに動くほど選択肢が広がります。
遺言書は「死の準備」ではなく「会社を守る経営判断」
遺言書を書くというと、なんとなく縁起が悪い話に聞こえるかもしれません。でも事業承継の文脈で考えれば、これは純粋に経営の話です。
自分がいなくなっても会社が揺らがないようにする。後継者が経営に集中できる環境を残す。それが創業者としての、最後の大仕事ではないでしょうか。
もし後継者がすでに決まっているなら、今期中に一度、事業承継に詳しい税理士か弁護士に相談することをおすすめします。公正証書遺言の作成は、思っているよりずっとシンプルに進められます。
※本記事は一般的な情報提供を目的としています。具体的な税務・法務判断は税理士・弁護士にご相談ください。