先日、神奈川県の製造業を経営する田中社長(仮名)からこんな話を聞かせてもらいました。

「数字だけ見れば成功ですよ。でも、正直後悔しているんです」

勤続35年の集大成として受け取った退職金は1億円。田中社長はそれを全額、都内のワンルームマンション3室に投じました。10年経ったいま、不動産価値は2.3億円——購入時の2.3倍です。家賃収入も年240万円が安定して入ってくる。傍から見れば「教科書どおりの成功」に映ります。

では、なぜ後悔しているのでしょうか。

資産は増えた。でも「設計」が抜けていた

田中社長の後悔は、大きく2つあります。

ひとつは相続税の重さです。2.3億円の不動産はそのまま相続財産になります。評価額の圧縮効果はあるものの、3人の子どもに分けようとすると、相続税だけで数千万円が吹っ飛ぶ計算になってしまいます。

もうひとつは争族リスクです。分割しにくい不動産を複数持っていると、「誰がどれをもらうか」で揉めやすくなります。長男・長女・次男の3人でマンション3室をどう分けるかが、すでに家族内のデリケートな話題になっているそうです。

「退職時に法人で持つ設計にしていれば、こんなに悩まなかった」——これが田中社長の率直な言葉でした。

個人所有と法人所有、何がそんなに違うのか

退職金で不動産を買う際、「個人名義で買う」のと「法人を通じて買う」のでは、その後の景色がまるで変わります。

個人所有の場合、家賃収入は不動産所得として累進課税(最高55%)の対象になります。相続が発生すれば不動産評価額がそのまま相続財産に加算され、売却時には譲渡所得税もかかります。個人だと、税金の「出口」が至るところに存在するわけです。

一方、法人で保有すると話が変わります。家賃収入は法人の売上として処理でき、役員報酬・退職金・経費として分散できます。相続の場面でも自社株として評価されるため、評価額の引き下げ策が使いやすくなります。「法人の器」を一枚かませるだけで、税の圧縮余地がぐっと広がるのです。

田中社長が悔やんでいるのは、まさにこの「最初の設計の有無」です。

退職金の受け取り方にも、見落としがある

少し視点を変えて、退職金の「受け取り方」についても触れておきます。

退職所得控除は非常に優遇された制度です。勤続35年なら控除額は2,210万円。さらに退職所得は(収入-控除)×½で計算されるため、1億円の退職金でも課税所得は約3,895万円にとどまります。これは給与や事業所得と比べると、破格の優遇といえます。

ただし、この恩恵を受けるにはタイミングも重要で、同じ年に複数の退職金を受け取ると控除の計算が複雑になります。また、受け取った後に何に使うかで、最終的な手残りが大きく変わってきます。

「もらった1億円をどう運用するか」と同時に、「受け取り後の税負担をどう減らすか」「将来の相続時にどう見えるか」まで、三段階で考えることが本当の節税設計です。

退職金は「老後の資金」ではなく「相続の設計図」

田中社長の話に戻ります。

10年前の彼には、老後の安心を確保したいという強い思いがありました。それ自体は正しい動機です。ただ、退職金を「老後の資産運用」として捉えるだけでは、設計が半分しか終わっていないのです。

退職金は多くの場合、人生最大の現金収入です。そしてそれは同時に、相続が発生するまでの「橋渡し資産」でもあります。老後だけでなく、20年後・30年後に自分の資産がどう見えるかを想定して最初の一手を決める——これが鉄則です。

法人を活用するか、不動産の名義をどうするか、生命保険と組み合わせるか。選択肢はいくつもありますが、どれが最適かはその方の家族構成・資産規模・事業承継の有無によって異なります。だからこそ、退職前の3〜5年という「まだ動ける時期」に専門家に相談しておくことが、結果的に何千万円もの差を生むことになります。

退職金を受け取ってからでは遅い設計もあります。まだ時間があるなら、今期中に一度、相続まで含めた全体像を専門家と棚卸ししておくことをおすすめします。

※本記事は一般的な情報提供を目的としています。具体的な税務判断は税理士にご相談ください。