先日、ある税理士仲間からこんな話を聞きました。
製造業を40年続けた73歳の社長が、突然の病で帰らぬ人となった。社員50人、売上10億円を超える地域の中堅企業。跡継ぎの長男も10年以上社内で修業を重ね、「あとは父からバトンを受け取るだけ」と思っていた矢先のことでした。
ところが、その社長には遺言書が一枚もありませんでした。
3人の相続人が3分割した自社株
遺言書がない場合、財産は民法の「法定相続」のルールで分けられます。残された相続人は妻・長男・次男の3人。自社株もその持分通りに分割されました。
妻が4分の1、長男と次男がそれぞれ8分の3ずつ。数字で見るとシンプルですが、これが会社の経営に何をもたらすかは、また別の話です。
問題はすぐに起きました。次男は会社に関わったことがなく、「株を持っていても意味がない。現金化したい」と主張し始めました。妻は長男と次男の間で板挟みになり、家族の関係は急速に冷えていきました。
「売りたい」対「続けたい」の泥沼
後継ぎのつもりだった長男の立場からすれば、10年間会社に捧げてきたのに経営権を握れないかもしれない状況です。
かといって次男の言い分も理解できます。相続した株は流動性がなく、配当も少ない。会社経営に関わってこなかった側から見れば、「現金で欲しい」という気持ちは当然かもしれません。
こうした対立は、オーナー企業の相続で約60%の確率で発生すると言われています。「うちは大丈夫」と思いがちですが、それは家族の絆を少し過信しているかもしれません。
解決まで3年、弁護士費用1,000万円超
この件の最終的な解決には3年の時間がかかりました。その間に費やした弁護士費用は1,000万円を超えています。
経営が宙ぶらりんになる中、優秀な社員が数名辞めていきました。取引先への影響もあり、売上は相続前のピーク時から2割近く落ちたそうです。
遺言書1枚と、生前の株式対策があれば防げた悲劇でした。そう聞いたとき、正直、背筋が寒くなりました。
自社株の分散は「経営権の喪失」と同義
オーナー企業において、自社株は単なる財産ではありません。経営の意思決定権そのものです。
株が分散すると、株主総会の決議が取れなくなることがあります。役員の選任、重要な契約、定款変更——これらはすべて株主の議決が必要です。後継者が過半数を握れなければ、名ばかりの社長になってしまうこともあります。
対策の柱は3つです。
- 生前贈与・譲渡: 後継者へ計画的に株式を移しておく
- 遺言書の作成: 「全株を後継者に相続させる」と明記する
- 遺留分対策: ほかの相続人に現金・不動産などを代償財産として準備する
どれか一つでも手を打っておくだけで、状況は大きく変わります。
遺言書は「最後の経営判断書」
「遺言書を書くのは縁起が悪い」とおっしゃる社長も少なくありません。気持ちはよくわかります。
でも視点を変えると、遺言書は「亡くなった後の経営判断を今のうちに下しておく書類」です。社長が元気なうちに意思を明確にしておくことが、社員を守り、家族の関係を守り、会社を守ることにつながります。
作成にあたっては、公証役場での「公正証書遺言」がおすすめです。紛失や改ざんのリスクがなく、相続発生後の手続きもスムーズに進みます。費用は財産総額によりますが、数万円から10万円程度が目安です。
事業を長年かけて育ててきたからこそ、承継の準備は早ければ早いほど選択肢が広がります。遺言書がない、自社株の整理ができていない——そう感じた方は、ぜひ今期中に事業承継に詳しい士業(弁護士・税理士・司法書士)へ相談することをおすすめします。
遺言書1枚と株の集中対策。その2つだけで、多くの悲劇は十分に防げます。
※本記事は一般的な情報提供を目的としています。具体的な税務・法律判断は税理士・弁護士にご相談ください。