先日、事業承継を専門とする弁護士からこんな話を聞きました。「遺言書がなかっただけで、会社が3つに割れてしまったんです」と。

創業から30年、売上5億円規模まで育て上げた製造業のA社長の話です。後継者はいちおう決めていた。でも、紙一枚を書かないまま、突然の病気で帰らぬ人となりました。

法定相続が動き出した瞬間

A社長が亡くなった翌日から、相続の手続きが自動的に始まります。遺言書がない場合、民法の「法定相続」のルールがそのまま適用されます。

妻に1/2、長男に1/4、次男に1/4——。これが法律の答えです。A社長が丹精込めて育てた会社の株式は、このように3人に分割されることになりました。

問題は、誰一人として過半数を持っていないことです。

株主総会が「拒否権」の戦場になる

会社の重要事項は株主総会で決まります。新しい役員を選ぶのも、大型投資を決めるのも、会社を売るかどうかも。

でも、株主が3人に分かれていると、誰かが反対すれば何も決まりません。長男(後継者として考えていた)が新しい戦略を提案しても、母と弟が首を縦に振らなければ前に進めない。経営判断が止まる、というより、止まり続けるのです。

A社長のケースでは、「会社の舵取りが誰なのかわからない」という状態が数か月続きました。その不透明さを嫌って、創業当時からの付き合いだったメイン取引先が取引を打ち切ったのです。

30年かけて積み上げた信頼関係が、遺言書1枚なかっただけで崩れ落ちた。

なぜ書かないのか、という問い

こういう話をすると、「うちも書いていないかも」と青ざめる社長が少なくありません。

書かない理由はいくつかあります。「自分はまだ若い」「後で考えればいい」「遺言書なんて縁起でもない」——。気持ちはわかります。でも、事業承継における遺言書は、死の準備ではありません。会社の安定を守るための経営ツールです。

特に、オーナー社長が自社株を大量に保有しているケースは要注意です。株式は相続財産として扱われるため、遺言書がなければ法定相続の通りに分割されます。株式が分散すれば、経営の主導権も分散する。M&Aや外部資本の受け入れを検討している会社なら、それだけで企業価値が下がります。

「株式の集中」と「遺言書」はセットで考える

事業承継の設計として最低限やっておくべきことは、2つです。

ひとつは、後継者に株式を集中させる設計を生前に行うこと。生前贈与、種類株式の活用、持株会社への組み替えなど、手段はいくつかあります。税務面での整理も必要なので、税理士と一緒に設計するのが基本です。

もうひとつが、遺言書です。自筆証書遺言でも公正証書遺言でもかまいません。「誰に何を承継させるか」を明確に書き残すことで、法定相続の均等分割を回避できます。

この2つがそろっていれば、A社長のような事態は防げました。長男が自分の判断で会社を動かせた。取引先を失わずに済んだ。

準備できる時間は、今しかない

A社長が急逝したのは、まだ60代の前半でした。自覚症状のないまま倒れ、翌日には遺言書のない相続が動き出した。準備できる時間はあったはずなのに、「まだ大丈夫」という思い込みがそれを奪いました。

事業承継は「いつかやること」ではなく、「今期中にやること」です。

もし今、自社株の承継設計をまだしていないなら、まずは税理士か弁護士に相談の場を一度設けてみてください。遺言書を書くだけなら、数時間の作業です。会社を守るための「最後の一枚」を、後回しにしないでください。

※本記事は一般的な情報提供を目的としています。具体的な税務・法務判断は税理士・弁護士にご相談ください。