先日、60代の製造業の社長からこんな相談を受けました。「自分が倒れたとき、会社はどうなるんだろう」と、ふと不安になったというのです。後継者はいる、遺言書もある。それでも何か引っかかる、と。

その「引っかかり」の正体は、おそらく認知症リスクです。多くの社長が見落としているのですが、これは「死後の相続」より先に会社を直撃する問題なのです。


認知症になった瞬間、財産が「凍りつく」

法律の話を少しだけ。日本では、認知症などで判断能力を失ったと判断された場合、本人名義のあらゆる財産が事実上、動かせなくなります。銀行口座、不動産、そして自社株も例外ではありません

銀行は「ご本人の意思確認ができない」として口座を凍結します。株式の移転や売却には本人の意思能力が必要ですから、後継者への自社株の譲渡もストップ。M&Aの相手先が決まっていたとしても、交渉はそこで終わります。

仮に会社の株式の評価額が3億円だとしたら、その3億円が宙に浮いたまま、誰も触れない状態になるわけです。社長が元気でいる間に整備しておかなければ、後継者はただ見守るしかできません。


「成年後見制度」では遅すぎる、重すぎる

「成年後見制度があるじゃないか」と思った方もいるかもしれません。たしかにそういう制度はあります。ただ、実務的にはかなりハードルが高いのです。

家庭裁判所への申立てが必要で、審判が下りるまでに数ヶ月かかることもあります。後見人が選ばれた後も、財産の処分には裁判所の許可が必要なケースがあり、事業承継のような「スピード感が求められる意思決定」とは根本的に相性が悪い。

しかも後見人として選ばれるのが、家族ではなく弁護士や司法書士などの専門職になるケースも多く、毎月数万円の報酬が発生します。本人が亡くなるまで続くので、トータルコストは数百万円規模になることもあります。


家族信託なら、自分でルールを設計できる

そこで注目されているのが「家族信託」という仕組みです。簡単に言うと、元気なうちに信頼できる家族に財産の管理権だけを移しておく契約です。

所有権は社長のままで構いません。ただし「管理・運用・処分する権限」は後継者である息子や娘に渡しておく。そうすれば、社長が認知症になった後でも、後継者が自社株を動かすことができます。事業承継の手続きも、M&Aの交渉も、止まりません。

重要なのは、このルールを自分で決められるという点です。「株式の議決権は自分が持ったまま」「売却するときは後継者と配偶者の合意が必要」といった条件を、信託契約書に盛り込むことができます。成年後見のように裁判所に委ねるのではなく、自分の意思を仕組みとして残せるのです。

費用の目安は、設計の複雑さにもよりますが50〜100万円程度が一般的です。司法書士や信託の専門家に依頼して、公正証書で契約を結ぶのが標準的な流れです。


「まだ先の話」と思っているうちが、実は一番のリスク

家族信託で唯一の条件は、契約を結ぶ時点で判断能力があることです。認知症と診断された後では、もう手を打てません。「軽度認知障害(MCI)」の段階でグレーゾーンと判断されてしまうこともあります。

厚生労働省の調査によれば、65歳以上の約15〜20%が認知症、さらに同程度がMCIと言われています。他人事ではありません。

「遺言書はある」「後継者も決まっている」という社長でも、認知症になった瞬間にその計画は止まります。遺言書が効力を持つのは死後の話であって、生きている間の財産凍結には対応できないからです。

事業承継の計画を立てているなら、家族信託はそのパズルの中でも優先度の高いピースです。まだ60代であっても、「今が一番早いタイミング」と考えて、専門家への相談を検討してみてください。


※本記事は一般的な情報提供を目的としています。具体的な税務・法務判断は税理士・司法書士にご相談ください。