先日、資産管理会社を持つ60代の社長から、こんな相談を受けました。「父が最近、物忘れが激しくなってきて…。相続のことを急がないといけないと思っているんですが、何から手をつければいいですか?」

こういう相談、実は年々増えています。そして多くの場合、すでに手遅れになっているケースが少なくありません。なぜ「手遅れ」が起きるのか。それを理解すると、家族信託がなぜ相続税対策として強力なのかが見えてきます。

認知症になった瞬間、節税の手がすべて止まる

知っておいてほしい怖い現実があります。親御さんが認知症と診断された瞬間、それまで進めてきた相続対策は、法律上ほぼ全てストップしてしまいます。

年間110万円以内の生前贈与も、生命保険の加入・変更も、不動産の名義変更も——いずれも「本人に判断能力がある」ことが前提の契約行為です。認知症で判断能力が失われると、たとえ家族であっても手続きができなくなります。

「あと1〜2年したら考えよう」という先送りが、数千万円単位の損失につながることがあります。相続対策において、時間は最大の資源です。

家族信託が認知症後も動き続ける理由

家族信託とは、元気なうちに財産の「管理権」を信頼できる家族(多くは子ども)に移しておく仕組みです。財産の所有権はそのままに、管理・運用の権限だけを切り出すイメージです。

「財産はお父さんのもの。でも管理はお子さんに任せる」という状態を、契約によって作ります。これにより、親が認知症になった後も、子どもが不動産の賃貸管理や売買、修繕の判断などを継続できます。

成年後見制度と違い、家庭裁判所の監督なしに動けるのが大きな実務上のメリットです。不動産の売却ひとつとっても、後見制度では裁判所の許可が必要になることがあり、時間も費用もかかります。

小規模宅地等の特例が「使えるかどうか」で数千万変わる

家族信託が相続税に直結する最大の理由が、「小規模宅地等の特例」を確実に活用できるかどうかです。

これは被相続人が住んでいた土地の相続税評価額を最大80%減額できる制度です。5,000万円の自宅土地であれば、特例適用後は1,000万円評価になります。差額4,000万円は、課税対象から丸ごと外れます。

相続税の基礎控除は「3,000万円+600万円×法定相続人数」ですから、法定相続人が2人なら4,200万円。評価額の4,000万円減だけで、税率次第では相続税が数千万円単位で変わります。

ただし、この特例には適用要件があります。認知症で財産が実質凍結され、適切な管理ができていない状態では、要件を満たせないケースが生じることがあります。家族信託があれば、認知症後も子どもが管理を継続できるため、特例の要件維持がしやすくなるわけです。

相続財産3億円で対策の有無がどう響くか

具体的な数字で考えてみましょう。相続財産3億円、法定相続人が子ども2人のケースです。

基礎控除4,200万円を差し引いた約2.58億円が課税対象になります。ここに小規模宅地の特例(自宅土地5,000万円→1,000万円評価)を使えば、課税対象は約2.18億円まで圧縮できます。さらに生前贈与(年110万円×10年=1,100万円)と生命保険の非課税枠(500万円×相続人数)を組み合わせると、節税効果は積み上がります。

これらが全て機能するのは、「認知症になる前に設計が完了している」場合だけです。対策の有無で、支払う相続税の総額が1億円以上変わることも珍しくありません。

設計できるのは「動ける今」だけ

家族信託の設計には、公証役場での契約締結や不動産登記が必要で、最短でも1〜2ヶ月はかかります。親御さんに判断能力がなければ、そもそも契約が結べません。

「認知症の兆候が出てから急いで相談に来られたが、もう信託契約が結べなかった」——そういうケースが、士業の間でも年々増えているという話をよく聞きます。

70代の親御さんがいる経営者の方は、「まだ早い」ではなく「今が最後のタイミングかもしれない」という意識で動いてみてください。親御さんが元気なうちに家族信託の設計を始めることが、億単位の相続税対策の第一歩になります。

※本記事は一般的な情報提供を目的としています。具体的な税務判断は税理士にご相談ください。