先日、ある経営者仲間の集まりで、こんな話を聞きました。

「報酬をゼロにして節税したら、退職金がゼロになりかけた」——。

冗談のように聞こえますが、これは笑えない実話です。今日はその顛末を、できるだけ丁寧にお伝えしたいと思います。

「法人税が減った」の裏側で起きていたこと

製造業を30年以上営んできた田中社長(60代)のケースです。

ある年、業績が好調で利益が膨らんだため、「少しでも法人税を圧縮したい」と考えた田中社長は、顧問税理士に相談せず、自分の判断で役員報酬をゼロ円に設定しました。

確かに、役員報酬は損金に算入できる費用です。報酬を増やせば法人の利益が減り、法人税も下がります。逆に言えば、報酬をゼロにすれば法人側の節税効果は薄れる。それでも田中社長がゼロを選んだのは、「個人の所得税・住民税を払いたくなかったから」でした。

短期的には確かに効果がありました。個人の税負担は消え、社会保険料の会社負担もなくなった。手元に残るお金が増えた感覚があったそうです。

でも、数年後に深刻な問題が浮かび上がってきます。

退職金の計算式に「ゼロ」を代入した結果

役員の退職金は、一般的に次の計算式で算出されます。

最終報酬月額 × 在任年数 × 功績倍率

この式の意味を、もう少し丁寧に説明します。「最終報酬月額」とは、退職直前に受け取っていた月額報酬のこと。在任年数が長くなるほど、功績倍率が高いほど、退職金は増えていく仕組みです。

田中社長は「在任35年、功績倍率3倍」という実績を持っていました。仮に最終報酬月額が100万円であれば、退職金は3,500万円。そこまでいかなくても、3,000万円前後は受け取れると見込んでいたそうです。

ところが——最終報酬月額がゼロ円であれば、この計算式の答えも当然ゼロになります。

0円 × 35年 × 3倍 = 0円

数学的には当たり前の話ですが、これが現実として目の前に現れたとき、田中社長は言葉を失ったといいます。

「社会保険料が消えた」ことの本当のコスト

報酬をゼロにすると、社会保険の被保険者資格を喪失することになります。つまり、厚生年金の保険料も払わなくなる。

一見すると「保険料の節約」に見えますが、実態は違います。厚生年金の保険料を払わないということは、将来受け取れる老齢厚生年金の額も積み上がっていかないということです。

田中社長の場合、報酬ゼロの期間が3年以上続きました。その間に積み上がるはずだった厚生年金の受給額は、試算すると生涯で数百万円規模の差になります。

退職金と年金、ダブルで将来の収入が削られていたわけです。

「節税」と「損」は紙一重

ここで整理しておきたいのは、節税の本質は「手元に残るお金を最大化すること」だという点です。

法人税が下がっても、退職金が消えれば意味がありません。社会保険料の負担が消えても、年金が減れば本末転倒です。

税金の最適化を考えるとき、多くの社長が「今期の税負担」だけを見てしまいがちです。でも本当に重要なのは、10年後・20年後の「手取り総額」をいかに増やすか、という視点です。

田中社長が報酬ゼロを選んだ年、削減できた個人の税負担は数百万円程度だったといいます。それと引き換えに失いかけた退職金は3,000万円。どちらが得かは、言うまでもありません。

報酬設計は「出口」から逆算する

では、どうすれば良かったのか。

シンプルな答えは「出口から逆算する」ことです。いつ会社を引退するのか、そのときいくら退職金を受け取りたいのか。その目標から逆算して、「今の報酬をいくらにすべきか」を決める。この順番が正しいのです。

退職金3,000万円を目指すなら、最終報酬月額を約85万円以上に設定する必要があります(在任35年・功績倍率3倍の場合)。そこから逆算して「今期から毎年この水準を維持しよう」と計画を立てるわけです。

もちろん、役員報酬を高くすれば個人の所得税負担は増えます。でも退職金には「退職所得控除」という強力な節税枠があり、税負担を大きく圧縮できます。長期的に見れば、退職金として受け取る方が有利になるケースが多いのです。

この設計を自分一人でやろうとするから、田中社長のような失敗が起きます。

今すぐ確認してほしいこと

今の自分の役員報酬設定が、将来の退職金にどう影響するか——まだ計算したことがない方は、今期中に一度シミュレーションをしてみてください。

特に50代以降の社長は時間的な余裕が少ない分、一年一年の報酬設定が退職金に直結します。「まだ先の話」と思っているうちに、取り返しのつかないタイミングが来てしまいます。

報酬設計は、節税の中でも特に「やり直しが利きにくい」分野です。定期同額給与のルールもあり、期中での変更には厳しい制約があります。だからこそ、決算前・期首のこのタイミングに、専門家と一緒に出口まで見据えた設計を見直しておくことを強くおすすめします。

「今の報酬設定のまま引退したら、退職金はいくらになるか」——この一問を、明日にでも顧問税理士に聞いてみてください。


※本記事は一般的な情報提供を目的としています。具体的な税務判断は税理士にご相談ください。